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concave and monotonically increasingなブログです。買い物や欲しいものを記録します

無題のメモ

人間の本性を理性と感情の二つに分けたのはデカルトだった。

ひとまず、これを受け入れよう。ひとまずといっても、今の僕にはこれ以上踏み入って二元論に代わるアイデアを思いつくことは出来ないように思えるし、このエントリを通じてこの前提を替えることはない。

 

なんの話がしたいかというと、人間、殊に僕が幸せになるための方法論についての話だ。

唐突だが僕のアイデアはこうだ。

 

理性と感情は、人の意思決定を支配する二つの元である。これはデカルトに従う。そして、意思決定とはすなわち選択だ。日々の膨大な意思決定の積み重ねは、一つ一つの選択の積み重ねであり、それはただちに人生だ。

僕たちは自らの人生を豊かにしたい。生まれてしばらくしたある刻から死のその刻まで、絶え間なく為しつづける選択の積み重ねの上に、できるだけ大きな幸せを享受したいと願う。

 

では、どのようにすれば良いのか。僕は、豊かな選択をすれば良いのだと思う。豊かな選択をするためにはどうすれば良いのか。ここで、本性の二元である理性と感情に立ち戻る。

理性と感情とは意思決定にとってどのような役割を果たすのだろうか。僕は、それらは本質的で個人的な機構だと思う。

理性と感情ばかりは個人が持つ何者にも侵されないサンクチュアリであり、外界の影響こそ受けるだろうけれども、結局は影響を受け入れるか否かすら選択であり、その意味で理性と感情は本質的で個人的なのだ。

では機構とはどういうことか。それはつまり、なんらかの入力を我々が意思として出力する、選択するに至るまでの構造である。それは一見ブラックボックスのようで、長年自己と付き合ってきた老人にも、全てを理解し尽くすことはもしかしたら困難なのかもしれない。しかしいずれにせよそれは、何かを入力したとき意思を出力するという機構なのだと思う。

ブラックボックスの中身をよく把握しておくことは、良い選択のためには言わずもがな大事なことだ。では、ここからが僕が言いたいことなのだが、その他に僕たちが、より豊かな選択のために取れる手段はあるのだろうか。

 

僕は、知識と感覚を豊かにすることこそ、我々が(容易に)取りうる手段なのではないかと思う。知識は理性という機構に対するプラグインあるいはグレードアップパーツのようなもので、理性の機構に影響を与えたり、機構の働きを滑らかにしたり、出力できるモノ(=選択)のバリエーションを増やしたりするものだ。同じように感覚は、感情という機構が出力できるモノを豊かにしたり、機構の制御を自在にしたりする。

そして時に、新たな感覚が理性を鋭くしたり、新たな知識が感情を増幅したりと、二つの元にインターセクショナルな形で影響することもあるだろう。

 

このように知識と感覚は選択を支配する機構に働きかけて、より豊かな選択を我々にもたらしてくれるのではなかろうか。

なぜこのようなことを改めて考えるかというと、現在的・現実的な世界では、金にまつわる選択が(もちろん理性と感情を通じて)我々の選択に小さくない影響を与えているように感じられるからだ。

金を得ることを優先する選択、金を使わない選択を非難するのではない。しかし、金とはなにか?

金とは、(少なくとも市場経済においては)人々が他のモノやコトに与えた価値を相対化するものだ。金は価値を測るものであり、価値と交換するためのものだ。

ではなぜ金が必要なのか?忘れてはいけない、金が必要なのは社会が要求するからだ。金がただちに僕たちに幸せを与えるからではない。

もちろん、金がないと得られないモノもあるし、コト、経験もある。そうしたモノやコトから知識と感覚を得ることができるということも忘れてはいけない。しかし、いつも我々は天秤にかけなくてはならない、金=社会が要求する相対価値と、選択を豊かにする知識や感覚とを。結局のところ、自らを幸せにするのは、選択の上に手に入れることのできる、個人的で主観的な絶対価値なのである。

 

この天秤は時と場合に応じてどちらにも傾くだろうけれども、天秤にかけることを怠れば、我々は自らが幸せになるための針路を見失うことになるのではないだろうか。

 

 

結語に代えて、私事ではあるけれど僕の選択について振り替えらせてほしい。

僕は最近、職を選択した。自慢のようで恐縮だが、金を稼げる職も選べる立場にいたと思う。しかし、僕が選択したのは、仕事を通じて(世界についての)より多くの知識を得ることのできる職であり、同時に少なくはない余暇が享受できる職である。

当然余暇では金は稼がないから、知識や感覚の得られる活動をしたり、休息を取ったりすることができるだろう。良い選択ができたと思っている。

(ちなみに経済学では家計の労働供給をモデル化する時、余暇効用というものを考える。効用とは幸せのことだ。僕が上で述べたようなことがその前提にあるとは思っていないけれども、ただ、経済学でも幸せについて多くの先人たちが正面きって考えてきたことを踏まえると、よく考えられているなあと感心を禁じ得ない。)